香綾会コラム

No.63「香綾会関東支部だより 第7号」

    

香綾会関東支部事務局 副支部長 後藤 仁哉(高17回生)

郷土の歴史と地名の由来④宗像

宗像と言えば、宗像大社、中でも世界遺産の沖ノ島が一番の関心事でしょう。そこで、今回は沖ノ島を中心に、それもあまり知られていない事柄を中心に掘り下げることにしました。

さて、宗像市は北九州市と福岡市の中間に位置し、北を玄界灘に開き、三方向を山々で囲まれた面積119平方キロメートルの盆地状の地形で、人口は約10万人、関東では千葉県柏市とほぼ同じ広さです。市の中央には周辺の山々から水を集めた釣川※①が流れ込み、玄海灘に注いでいます。

宗像市の歴史をみると、昭和29年、東郷町、赤間町、吉武村、河東村、南郷村が合併した宗像町に始まり、平成15年に玄海町と合併して宗像市となり、同17年に大島村が加わって現在の宗像市になりました。宗像の語源をみると、畝(うね)・方(かた)で、原義は低い里山が目立つ処であり、ウネカタ→ムネカタ→ムナカタと転じた語音のようです。「続日本記」、「令集解」では「宗形」とありますが、平安期の文献では専ら「宗像」が用いられています。「像」が人の姿、形を意味することや、文字面が「形」よりも良いことなどから用いられるようになったのではないかと指摘されています。

また、古事記、日本書紀によると、宗像大社は大和政権と深い関わりがあり、その関係を示す豪華な奉献品が約500年の間、沖ノ島にほぼ手つかず状態で残っていました。他に例を見ない高い学術的価値から、発見された約8万点全てが国宝に指定され※②、このことから、沖ノ島は海の正倉院と呼ばれています。

2017年7月9日、ユネスコは宗像の8つの資産を、沖ノ島群の世界文化遺産として登録しました。沖ノ島にある宗像大社沖津宮と南東に約1キロ離れた3つの岩礁、天狗岩、御門柱(みかどばしら)、小屋島、そして、大島の北側に設けられ沖津宮を遙拝する沖津宮遙拝所、大島に鎮座する宗像三宮の一つ中津宮、宗像大社の辺津宮(へつみや)、5世紀から6世紀に築かれ、沖ノ島へと続く玄海灘を一望できる古代豪族・宗像氏の新原・奴山(しんばる・ぬやま)古墳群です。これらの全ての遺跡は、沖ノ島を中心とした信仰が現在まで継続していることを示すものとして高く評価されたわけです。

さて、沖ノ島は、周囲約4キロで、皇居(周囲5キロ)より少し小さく、宗像市の神湊から60キロ、福岡から77キロ、対馬の厳原から75キロ、釜山から145キロの絶海の孤島です。そのような地理的環境から、古代における遣隋使や遣唐使の航海における標識となり、航海の安全を祈るための儀式がたびたび行われ、やがて神宿る島として意識されるようになりました。

沖ノ島の沖津宮は宗像三女神の長女である田心姫(たごりひめ)を、本土から6.5キロ離れた大島にある中津宮は次女の湍津姫(たぎつひめ)を、内陸にある辺津宮(へつみや)は三女市杵島姫(いちきしまひめ)をそれぞれ祀っています。これら宗像三女神は天照大神と素盞鳴尊(すさのおのみこと)との誓約(うけい・古代での正邪の占い)により誕生したとされ、宗像大社はこの三宮からなる複合的組織の珍しい神社です。

全国6200余社の総本社であり、天元2年(979年)、大宮司職が設けられてからは始祖である宗像氏が戦国時代末期までの80代、務めておりました。辺津宮、中津宮、沖津宮を線で結びますと、ちょうど韓国釜山に辿り着き、このことからも朝鮮に繋がる航路だったことが解ります。さて、沖ノ島に上陸するには、全裸で海中に浸かって禊をしなければなりませんし、また、女人禁制となっています。

作家の玉岡かおるさんは、「『だめと言われれば余計行きたくなる』沖ノ島だが、中津宮の神職に『玄海灘は荒海で、航海は命がけ。だから、女性を危険な目にさらさないため、女性は行くな、と女人禁制になった』と教わった・・・」と書いています(PHP・平成24年9月号)。

果たしてどうだったんでしょうか。また、沖ノ島は、一木一草一石の持ち出し禁止、島での見聞は一切口外できない不言様(おいわずさま)の禁忌があり、さらには、沖ノ島の原始林は国指定天然記念物になっています。

沖ノ島周辺の海域は魚影も濃く、年間を通しヒラマサ(ヒラス)、真鯛、ブリ、イサキ、石鯛等の中・大型の高級魚が獲れます。島周辺の海域は宗像市大島の地先漁業権があり、漁船だけでなく遊漁船も大島漁港を出て、瀬渡しにより地磯やケーソン(水中構造物として防波堤などに使われるコンクリートの大型の箱)に上陸し、釣を楽しむことができました。

しかし、平成16年に、福岡県、宗像市、宗像大社と漁業者とで合意し、島への接近は2キロまでに制限されました。また、女性については従来ケーソンでの防波堤釣りができましたが、今回からは男性を含め禁止されることになりました。特に罰則はありませんので、遊漁船と釣り人のマナーに委ねられています。

さらに、沖ノ島は意外なところでも登場します。その位置からして日本国の国防上、重要なポイントであり、江戸時代には福岡藩が9人の藩士を防人として常駐させて警備し、日露戦争に際しては、海軍が島の高地に望楼を設けて通信員を置き、ロシアのバルチック艦隊への備えをしていました。

日本海海戦は、この島の沖合で遭遇した日本とロシアの艦隊の決戦で、日本の大勝利に終わった世界史的にも有名な海戦(戦死者はロシア4,830人、日本117人)です。

宗像大社沖津宮の神職の下働きであった16歳の佐藤市五郎(後の神職)はその海戦を目撃し、明治38年(1905年)5月27日早朝、「数十隻の艦隊が打ち出す砲声は耳をつんざき・・・・無数の水柱が沖天高く突上る」「艦隊が吐き出す煙は海上一帯に墨を流したように暗黒な恐ろしい風影を呈す」と伝えています。

司馬遼太郎は、「坂の上の雲」で、「・・・・当時18歳の小使いの少年が眼下に展開する日本海海戦を目撃することになった。神職は懸命に祝詞をあげ、小使いの少年は身がしきりにふるえ涙がこぼれてどうにもならなかった。」と記しています。

私の祖母は明治22年の生まれですが、日本海海戦の時、箱崎の浜にいると、「ごぉーんごぉーん」と鳴る大砲の音を聞いたと話しておりました。

その後、連合艦隊は日本海海戦により鹵獲(ろかく)したロシアの海防戦艦ゲネラル・アドミラル・アプラクシン(4,200トン)を、二等海防艦・沖ノ島と命名し、海軍艦艇に組み入れました。

その後、大正14年に廃船になり日本海海戦保存会に払い下げられ、福津市津屋崎の海岸に繋留中、荒天のため座礁し破壊されてしまいました。また、日露戦争後、連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、宗像大社に連合艦隊の旗艦であった戦艦三笠(1万5,140トン)の羅針盤を寄進しています。

昭和15年(1940年)には、国防上の理由で、沖ノ島に要塞が築かれました。要塞は対馬海峡を航行する艦船の攻撃のためですが、主に対潜水艦への砲撃を目的としました。下関要塞・重砲聯隊が島・西北部と北東部に、96式二連装15センチ加農砲※③を各2門、計4門を据え、白岳の中腹に弾薬庫を建て、陸・海の軍人、兵士200人程が常駐しました。

現在でもコンクリートの厚みが50センチもある弾薬庫と砲台の跡があります。兵士達は食料不足、燃料不足に悩まされ、市のシンボルで、学術的に貴重なオオミズナギドリ※④を食べたり、神木である原生林を炊事の焚き木に使っていたようです。

砲台、弾薬庫を含む島の全容は、昭和20年にアメリカ軍の偵察機が撮影した写真があります。もし、島がアメリカ軍の爆撃を受けたらどうなっていたんでしょうか。小さな島ですから、見る影もない廃墟になっていたかも知れませんね。

次回は宇美です。

以上

参考文献→福岡県の歴史・山川出版社、福岡歴史百景・葦書房、福岡県の歴史散歩・山川出版社、筑前の地名小字・池田善朗・石風社、福岡地名大辞典・角川書店、福岡地名の謎と歴史を訪ねて・一坂太郎・ベスト新書、福岡県の神社・海島社、古代の福岡・海島社、日本の神々1・白水社、日本の野鳥図鑑・杉田道生・ナツメ社、日本陸軍連隊総覧・新人物往来社、聯合艦隊軍艦銘銘伝・片桐大自・潮書房光人社、坂の上の雲・八巻「沖ノ島」・司馬遼太郎・文春文庫
※①釣川には長太郎河童の伝説がある。昭和61年、「日本昔ばなし」で放映された。
※②発見された奉献品は、金製指輪、金銅製馬具、ペルシャ産とみられるカットグラス片、卑弥呼の鏡とも言われる三角緑神獣鏡を含む71面もの銅鏡など計8万点。全て国宝に指定され、宗像大社辺津宮境内の神宝館に収まっている。
※③96式二連装15センチ加農砲。96は紀元1996年(昭和10年)の末尾2ケタのこと。二連装は弾丸を2発一斉に発射できること。15センチは口径を示し、加農砲とは長砲身で射程や低伸性(弾道が直線に近く、着弾までの時間が長いこと)に優れる砲のこと。有効射程20キロ。
※④オオミズナギドリ。大きさはカラスくらい。魚などを水面でついばんだり、潜水して捕える。沖合いをグライダーのように飛んで行くのが見える。市の鳥に指定されている。

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