香綾会コラム
No.62「香綾会関東支部だより 第6号」
香綾会関東支部事務局 副支部長 後藤 仁哉(高17回生)
郷土の歴史と地名の由来③篠栗
鬱蒼とした森が開け、木漏れ陽が射し込む林に入ると、耳をつんざくような蝉時雨と谷川のせせらぎ、小学生の私は、毎年、夏が来ると若杉山に分け入り、昆虫採集に夢中になり遊びまくったことを思い出します。若杉山は標高631メートル(東京スカイツリーとほぼ同じ高さ)で、篠栗町の南、須恵町との境にある霊山であり、山頂近くの八十八ヵ所霊場・奥の院には福岡県指定の樹高30メートルの権現杉が聳え、大祖宮には神功皇后の神像が建立されています。
太祖神社(たいそじんじゃ)の社伝によると、若杉山の由来は神功皇后が若杉山で手折った杉をお守りとし、その杉を分けて香椎に植えたことで、分け杉山から転じ若杉山と呼ばれるようになったとのことです。この分けられた杉こそが、香椎宮の神木・綾杉です。他方、語源からの考証では「湧く(わく)」「坏(つき)」で、古器の高坏(たかつき)のように高く(たかく)湧き(つき)あがったように見える山容から「ワクツキ」転じての「ワカスギ」から若杉をあてたとしています。
そのことはともかくとして、若杉山の山裾が広がった様は、威風堂々とし、かつ美しく、福岡市のシンボルとして市民に愛されていることがよく解ります。さて、現在の福岡県糟屋郡篠栗町は、昭和30年4月、旧篠栗町と勢門村(せとむら)が合併して誕生した町で、面積は38.93平方キロメートル(江東区39.99平方キロメートルとほぼ同じ大きさ)、人口は3万人超、福岡市のベッドタウンとして発展しています。
篠栗は「小(ささ)」「刳ル(くる)」からきており、語源では小さく裂け分かれたような地形であって、畑仕事で土片(つちくれ)を扱うと指が油気を失ってパサパサになる状態をササクレるといいますが、それと同義です。篠栗町の歴史をみると、室町中期の書状には篠栗の地名があり、続風土記には、江戸期は福岡藩領で勢門(せと)河内と言われた10ヶ村の一つで、枝村に山手畑村、城戸畑村、牛切り畑村があると記載されています。
福岡から飯塚へと続く篠栗街道の交通拠点で、藩主黒田長政が宿場町を作らせました。明治22年、篠栗、高田(たかた)、金出(かないで)、萩尾(はぎのう)の四か村が合併して篠栗村になり、昭和30年に勢門村(せとむら)を合併し、31年には筑穂町の一部を編入して内住(ないじゅう)とし、55年には人口約2万人になりました。
その間の特筆すべき出来事として、昭和30年代のエネルギー革命があります。明治45年、明治鉱業株式会社高田炭鉱が創業を開始したことを嚆矢に、昭和になってからは田丸鉱業、大栄鉱業、福正鉱業、大勢門鉱業、大富鉱業の各会社が続々と創業し、篠栗町の石炭産業は隆盛を極めましたが、石炭産業の衰退と共に、昭和38年には全山廃止となりました。鉱夫用の浴場に明治鉱業勤務の義理の叔父と入浴しましたが、体育館みたいにだだっ広く驚いた思い出があります。
もう一つは、篠栗四国霊場に代表される観光産業です。代表的な霊場としては第一番札所・南蔵院が著明であり、篠栗四国霊場の総本寺として高野山真言宗の別格本山となっています。江戸時代末期の1835年(天保6年)、姪の浜(福岡市西区)の慈忍尼が不動の滝で祈祷を行い、篠栗町城戸の洞窟に庵を営んで弘法大師の教えを広めたことが始まりです。その後、尼の意思を受け継いだ篠栗町田ノ浦(だのうら)の藤木藤助等により、1854年(嘉永7年)に四国八十八ヵ所の霊場が完成しました。
今日では、小豆島(香川県)、知多半島(愛知県)とともに日本三大新四国霊場の一つであり、篠栗町内の87ヶ所、巡拝路40キロメートルに飛び地仏堂を設け、年間100万人を超える参拝者が訪れています。平成7年に完成した南蔵院釈迦涅槃像は、銅製としては世界一、全長41メートル、高さ11メートル、重さ300トンもあります。
また、戦時中のことですが、篠栗はアジア太平洋戦争における本土決戦の重要な拠点でもありました。それを知ったのは従兄の話からです。従兄の4歳頃の記憶によると、篠栗町田ノ浦(だのうら)の実家とその周辺に兵隊が満ち溢れていたこと、彼らはいつも腹を空かせていたこと、祖父の長男は中国戦線に、次男(私の父です)は南方戦線にそれぞれ出征し連絡も途絶えていたことから、祖父はいたく兵隊に同情して、村落の住民と共に食糧を提供したこと、引き揚げていった兵士の一人が感謝の意味でしょうか、戦後間もなくして青森からリンゴを送ってきたことでした。
多くの兵隊が篠栗にいたことは初耳でしたので、文献等資料にあたったところ、満州(中国東北)黒龍江の国境線警備と対ソ連作戦のため弘前で編成された歩兵第五二連隊、秋田編成の同一一七連隊、同じく秋田編成の同一三七連隊が、篠栗にあったことが解りました。連隊の上級部隊は第五七師団で、昭和20年4月、米軍の本土上陸に備えて九州に転用され、福岡地区の中心部隊として米軍の上陸阻止のため篠栗に布陣していたようです。歩兵第五二連隊の編成地は青森県の弘前であることで送られてきたリンゴと結びつき、また、当時の連隊は3000名以上の兵士で構成されていましたので、田ノ浦(だのうら)が兵隊で溢れていたことが理解できました。
結局のところ、第五七師団は米軍の博多湾上陸に備え陣地構築中に終戦となったようですが、師団は米軍の博多湾上陸後、14日以内に攻勢開始の作戦をとる企図であったことから、水際作戦ではなく、敵を引き込む内陸持久作戦をとったことがわかります。本土決戦となれば、師団は天然の要害である若杉山、八木山峠で米軍を迎え撃ち、篠栗を主戦場としたのでしょう。硫黄島に例えると、若杉山は擂鉢山(すりばちやま)の悲劇に比肩されるような凄まじい闘いになったものと思われます。
次回は宗像を特集します。
以上
参考文献→福岡県の歴史・山川出版社、福岡歴史百景・葦書房、博多に強くなろう①・葦書房、福岡県の歴史散歩・山川出版社、筑前の地名小字・池田善朗・石風社、福岡地名大辞典・角川書店、福岡県謎解き散歩・新人物往来社。博学博多・西日本新聞社、日本陸軍連隊総覧・新人物往来社、太平洋戦争師団戦史・新人物往来社、大東亜戦争全史・原書房
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