香綾会コラム

No.60「香綾会関東支部だより 第4号」

    

香綾会関東支部事務局 副支部長 後藤 仁哉(高17回生)

郷土の歴史と地名の由来①多々良

古代から、多々良川流域の平野部を多々良、多々良潟、多々良浜と呼んでいたようです。多々良川は糟屋郡篠栗町内住に源を発し、猪野川と一緒になった久原川と江辻の山の鼻にて、須恵川と合わさった宇美川と箱崎で、それぞれが合流し、名島にて博多湾にそそいでいます。流域面積は約200k㎡(私の住んでいる松戸市61k㎡の何と3倍以上!)に及びます。多々良川に沿う集落、津屋で私は生まれ育ちました。多々良川は私が物心ついた頃から、鮒や鯉、鰻等の魚を捕ったり、炎天下には皆で川に入り泳いだりした、楽しい思い出がいっぱい詰まっています。昭和20年代までの多々良川は清流で、鮎が遡上し、白魚漁が行われていました。

現在の福岡市東区多々良1~2丁目は、かつての行政区画、大字(おおあざ)であった多々羅、津屋、土井、松崎の一部により構成されています。多々良村は、明治22年から昭和25年までの60年近く糟屋郡の自治体名で、津屋、多田羅、土井、名子、蒲田、八田、松崎、名島の八ヶ村が合併してできた村です。これらの八ヶ村が当初の大字で、昭和16年に博多湾埋立地の千早が大字に加わって、多々良村は九大字になりました。村の中心地は津屋で、役場、農協、小学校、派出所がありました。また、当時、村で盛んだった養蚕業を受けて、大正11年2月共立蚕糸合資会社が設立されましたが、昭和恐慌の荒波を受けてあえなく倒産しています。因みに設立者は祖父です。その後、昭和25年には町制が施行されて多々良町に変わり、同30年には福岡市の一部に、同60年に区政施行で東区になり、現在に至っています。

次に、古代の多々良についてお話ししましょう。魏志倭人伝に登場する卑弥呼の邪馬台国がどこにあったのかは議論のつきないところですが、邪馬台国の周りの国の一つであった不弥国は多々良との結びつきが強いようです。不弥は宇美に類似する発音であったことで、宇美町が不弥国の候補とされてきましたが、国はある程度の広がりのある地域であることから、多々良、志賀島を含む糟屋郡一帯を指すのではないかと言われています。中でも、多々良川流域の八田や多々羅から、弥生時代の最先端技術である青銅器を作る鋳型が多く発見されていることからも、多々良がアメリカのシリコンバレーのような先進工業地域であったことがよくわかります。多々良が鉄器の生産拠点であった以前に、青銅器生産の中心地でもあったことには驚かされます。

地名としての多々良について、鎌倉期の古文書では、蒙古が襲来した弘安の役(1281年)の折、大船の襲来を防ぐため多々良潟に乱杭を打って要害とし、激戦を展開したとの記述があります。因みに、多々良ヶ浜は元軍が上陸した地点であり、外敵との戦いの最前線であったことから、後に象徴的意味合いを持つことになります。太平洋戦争中の昭和20年3月28日、沖縄に特攻出撃した特殊潜行艇回天の部隊名が多々良隊と名付けられました。当時、最新鋭であった潜水艦6隻中4隻と、特殊潜航艇20隻の部隊でしたが、多くは帰らぬ人となりました。また、昭和21年3月1日に想定された米軍100万人による関東制圧作戦はコロネットと呼ばれましたが、迎え撃つ日本軍第53軍もこれを予想し、日米最終決戦の最前線となる茅ヶ崎海岸を多々良浜と称しています。痛ましい歴史の一コマですね。

また、子供の頃、よく聞かされた1336年の多々良ヶ浜の戦いは有名です。現在、戦いの地であった流通センターの一角に碑が建っています。太平記によると、松崎の陣ノ腰に布陣した足利尊氏方2千と肥後の菊池勢2万との合戦ですが、激戦の末、尊氏方の勝利となり、その年に室町幕府ができました。尊氏方がなぜ10倍の菊池勢に勝ったのかは諸説のあるところです。

戦国期においても、多々良川を挟んでの合戦が幾度ともなくあり、中でも大友勢と吉川元春、小早川隆景の毛利勢(NHKの軍師官兵衛にも登場しました)が激戦を繰り広げています。

明治6年の竹槍一揆も大事件でした。処罰者は1万6000人に及び、福岡県庁を焼き払った大騒動ですが、その舞台となったのが多田羅の顕考寺(津屋にあった臨済宗、顕考寺とは別です。現在の顕考寺は江戸時代に浄土宗の寺として創建されました。)のようです。

最後に、多々良の地名は何に由来し、どういう意味があるのでしょうか。実はあんまりはっきりした答はないようです。一つは鉄の生産技法で使う鞴(ふいご)がタタラと呼ばれたことからきているとの説明です。多々良(タタラ)が始めて書物に出てくるのは、ヒメタタライスズヒメノミコトで(日本書紀)、神武天皇の后、大国主命の娘とされ、鉄器製造に関わる神と言われています。古代の多々良には鉄の製造所が多くありましたので、多々良はヒメタタライスズヒメノミコトと、何らかの関係があったのかもしれませんね。除夜の鐘で知られている太宰府の国宝、観世音寺の梵鐘は京都妙心寺の国宝の鐘と兄弟鐘であり、この鐘には、糟屋で…鐘を鋳る、との銘記があることから、筑前国続風土記では多々良を鋳造地と推定しています。多々良川流域は良質の砂鉄を産出し、鉄器の生産の中心地でした。二つめの説は、多々良の地形は川が注ぎ込む平野部にあることから、語源は川水を湛(たた)えるところで、河口が湖水のように広がる地形を指す『たた』と、『ら』(処)を一緒にしたものです。『ら』はそこらのらで、ここら、あちらのように場所につく接尾語で、これをもってタタ・ラを語源としています。私としてはこちらの方がより説得力があるような気がしますが、皆さんはいかがですか。次回は箱崎です。

以上

参考文献→古代の福岡・アクロス福岡文化誌編集委員会編・海鳥社。鉄の文化史・田中天・海鳥社。筑前の地名小字・池田善朗・石風社。福岡地名大辞典・角川書店。筑前竹槍一揆研究ノート・石瀧豊美・花乱社選書。相模湾上陸作戦・大西比呂志外・有隣新書。

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