香綾会コラム
No.50「遠き思い」
森田 隆明(高17回生)
私と香椎高校との関係は、生徒としての3年間と教師としての7年間の計10年間である。入学した昭和37年は巷では吉永小百合と橋幸夫の「いつでも夢を」が流れ、2年生の時には舟木一夫の「高校三年生」が爆発的にはやり、3年生の時は東京オリンピックで沸いていた。私たちの高校時代はまだ夢や希望が語れる時代だったかも知れない。
当時の香椎高校は今思うと、生徒の個性を尊重し、教師は決して大きな声を出さず、まして体罰などはあり得なかった。校歌にある「若人の誇り理想自治」の気概に教師も生徒も満ちていたと思う。それ故に生ぬるいと感じる向きもあっただろう。
私の香椎高校での最大の収穫は素晴らしい教師に巡り会えたことである。まだ高女時代の古い木造校舎が残っていた上空をアメリカ軍のジェット機が飛び、ものすごい爆音で授業が中断されることは日常茶飯事であった。僕たちはしばしの休憩と決めつけていた。英語の先生は静寂が戻ったとき、「いま日本の公教育の場が外国の飛行機の騒音で中断された。この現実を君たちはどう考えるか。」という意味のことをいわれた。先生の言葉の真意を十分に理解できなかったが、いずれ自分の頭で考え、自分の言葉で答えを見つけなければならないと思った。現実を見つめ、生き方を問われた先生だった。
もう一人の先生は、15歳の入学から還暦を過ぎた今日までお付き合いをさせていただいている長洋一先生である。社研部の顧問であった。今年(平成24年)10月に先生と私の一年後輩の宮川洋氏と3人で、『古代・中世の香椎』(櫂歌書房)を上梓する予定である。その本の「あとがき」に長先生との思い出を書いている。是非、購入して読んで欲しい。香椎高校のホームページでもこの本を紹介するつもりでいる。併せてご覧頂きたい。
私が香椎高校の社会科日本史担当として赴任したのは昭和62年であり、平成6年まで7年間在職した。全て担任をし、4回卒業生を出した。40歳から47歳までの気力の充実した時期であり、社会科の同僚にも恵まれ、教員生活のなかでも記憶に残る学校であった。
特に思い出すのは平成4年、3学年主任のときに福岡県の公立学校で最初に北京修学旅行を計画・実施したことである。今でこそ中国は日本を抜いて世界第2位の経済大国であるが、当時はまだ発展途上の国であった。そのため学校でも実施に反対の声はあったが、当時の森原正博校長の英断で実施することになった。後で聞けば先生は、校長室の机のなかを整理して出発されたそうだ。校長としての覚悟の程が窺えた。その年は日中国交回復20周年を迎えた年であった。北京師範大学附属実験中学生と香椎高生との交流会を見ていて涙が出そうになった。ここにいる若い人たちがいずれは国を動かす中心となり、交流の輪が広がる時代が必ず来る。そのための序章が眼前に展開されていると思ったからである。
今考えると、私の高校時代に出会った先生のように生徒の知的好奇心を刺激する授業をし得ただろうか。生き方について、人生について説得力ある言葉で、態度で接し得ただろうか。反省すべき点は多い。
在校生諸君に言いたいことは、受験勉強も大切だが自分は未熟であるという自覚に立ち、自分の容量を大きくすることだ。何でも良い全霊を込めて努力することだ。無償への奉仕は若いときにしか出来ない。努力は必ず報われる。
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