香綾会コラム
No.14「校旗制作秘話」
八香会会長 和田 精吉(高8回生)
それはたしか昭和29年の初秋の頃だったと思う。担任の藤野隆弘先生から「校長室に行くように」と言われ恐る恐る行った。と言うのもその数日前、校長室の前の廊下を大村精一君(故人 1組)と自転車に2人乗りしてあの大きな鏡に写り、当時の今方重一校長先生に見つかり追いかけられて始末書を書いたばかりであったからだ。
ところが校長室には香綾会の初代の会長の佐伯トキ子先生(高女1回生)が居られた。話はこうだ。「和田君、校歌ができるそうだネ。そうかすると校旗も要るやろう。今あるのは高女と香椎中学時代の校旗で、新制高校のは無いので、香綾会で作って寄附しよう」という話だ。すでに下調べがなされいつでも作れる風だった。話によると旗の周囲の房は中古品だが10万円かかるそうだが、お金は、香綾会で出すことにしているのでデザインを至急作ってくれということだった。
そこでこれは、美術部に頼むことにし、描いてくれたのが引頭勘治君(3組)だった。間もなく彼から渡された3枚のデザインは校章を中心に地色が、赤、モスグリーン、えんじ色だった。この3枚の中から男女共学ということから迷うことなく「えんじ色」に衆議一決、初代の校旗となったのである。当の引頭君は記憶にないと言われるが間違いない。
晩秋というより晩冬の頃だったと思う。落葉がかさかさと風に舞う香椎宮の参道を安部光君(3組)、金丸晴美さん(6組)らと校旗をかかげ、香椎宮で入魂式をした。
当時の10万円は、私にとってとてつもない大金のように思われた。旗の周囲の金糸は恐らく消防団か軍の連隊旗のものだったろう。ずっしりと重くいぶし銀のように、にぶく光って既に重厚な趣があった。勿論50数年経った今でも現存するが学校行事に使われているのは平成になって作られた2代目のものだ。
入魂式の当日はおだやかな木もれ陽の差す小春日和であった。記念写真(その写真は香綾会館に展示※写真参照)を撮ってくれたのは伊藤篤治さん(3組)である。
こうして初代の校旗ができた。校歌も校旗も八香会が関わってできたのである。
昭和30年3月8日、1つ先輩の7回生の卒業式には、壇上にこの輝かしい校旗が置かれ、出来たばかりの火野葦平作詞、古関裕而作曲の(白雲うつる・・・)校歌で送り出すことができたのである。
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