香綾会コラム

No.61「香綾会関東支部だより 第5号」

    

香綾会関東支部事務局 副支部長 後藤 仁哉(高17回生)

郷土の歴史と地名の由来②箱崎

箱崎の地域は、宇美川の下流域と多々良川河口の西側に位置する一帯を指します。古代より、かなり広い入江となっており、よい船だまりの状態で、海外交易の拠点として博多湾に面する絶好の地でした。箱崎と博多の境には石堂川があり分断されていますが、この川は中世末に開削されており、かつては博多と箱崎は地続きでした。

箱崎は明治22年までは粕屋郡箱崎村、昭和15年まで同郡箱崎町、同年から福岡市に編入され、同50年からは福岡市東区の町名となり、箱崎1丁目から7丁目まであります。人口は1万7000人、9500世帯が住み、東区の中心として区役所や九州大学の本部キャンパスがあります。しかしながら、九州大学工学部は既に福岡市の伊都地区へ移転しており、やがて、大学の全部が移転する予定になっています。

さて、箱崎の信仰の中心である筥崎宮ですが、923年(延長元年)嘉穂郡筑穂町大分にあった大分宮(だいぶぐう)の八幡神を遷座して造立されました。古く延喜式神名帳によると、平安後期、岩清水八幡宮別当が筥崎宮検校に補任され、大宰府領、近衛領を経て岩清水田中家の荘園となったと記されています。続風土記によると、箱崎の地名の由来は、筥崎宮の祭神である応神天皇の誕生時、その胞衣(えな)を箱に入れて埋めたことから箱崎と称することになったとの言い伝えがあり、地名や駅名が箱崎であるのは、神への畏敬から筥の字を避けたからとされています。研究者は、地形からみて、秀処(ホコ)・狭処(サキ)で砂堆地が細長く突き出した処からの地名と説明しています。

筥崎宮は砂堆地の高地に鎮座しており、お汐井道から楼門を望むと中心線は遥かに三群山に達し、筥崎宮の東の方位には龍王山が座します。筥崎宮は旧官幣大社、日本三大八幡宮の一つで、祭神は上記の応神天皇と神功皇后、玉依姫命です。幾多の戦火に遭うも、重文である現在の本殿、拝殿は戦国時代の一時期、博多を支配した大内義隆により天文15年に再建され、楼門は文禄3年小早川隆景が、一の鳥居は慶長14年黒田長政が、各寄進しています。檜皮葺きの楼門は伏敵門とも言われ、正面に文永の役の時に亀山天皇が納めた敵国降伏の書を拡大模写した額を飾っております(現在の額はレプリカです)。

筥崎宮には毎年、福岡ソフトバンク、アビスパ福岡が優勝祈願をし、祭礼には正月3日の玉せせり、秋の大祭、9月12日から同月18日までは1000年の歴史がある放生会(地元ではほうじょうや)で、子供の頃、指折り数えて待ちに待ったことが懐かしく思い出されます。露店が700軒くらい出て、一週間にわたり100万人の人出で賑わいます。サーカスやお化け屋敷、オートバイの曲乗りが楽しみで、梨も柿も放生会!というように生姜等の秋の新物が出て、季節感豊かな祭りでした。名物の博多チャンポンはガラス製のいわゆるビードロで、その音がチャンポンと聞こえることから、名付けられたものです。

箱崎は古来から、海外交通の要所であり、日宋貿易の拠点で、唐房(唐人街)がありました。文永の役(1274年)では、蒙古軍は多々良が浜に上陸し、筥崎宮は炎上しています。筥崎宮からは白張装束の30人ばかりが武装し、蒙古軍に射かけたようです(八幡愚童記)。箱崎にある九州大学農学部の正門近くには防塁跡がありますが、ただの草茫々の空き地で、今は防塁の痕跡もありません。元寇防塁跡の標識のみで漸く由来が解るだけです。

また、豊臣秀吉の九州征伐では、秀吉が箱崎の地に本営を構え、千利休、津田宗及、細川幽斉らと野点をした箱崎茶会が有名です。箱崎中学への通学路沿いに米一丸の供養塔があります。文治年間(1185~1190年)に主である京の一条殿の計略により、怨をのんで死んでいった米一丸の供養塔です。一条殿は容色のすぐれた米一丸の妻を奪うために、博多に入質している太刀を取り返してくるように命じました。その後米一丸は夜討にあい、この地まで逃れてきましたが力尽き、自決した悲劇の若者です。その縁ではないでしょうが、その脇を走る鹿児島本線は鉄道自殺が多発するところで有名でした。

また多々良川河口近くに、私の母校箱崎中学校があります。そこは、第二次世界大戦中は日本軍の捕虜収容所であり、多くの米軍兵士が収容されていました。昭和20年5月、福岡方面を爆撃するため飛来したB29が19歳の学徒兵粕谷欣三の操縦する戦闘機紫電改の空中特攻によって撃墜され、乗員のうち8名の米軍捕虜が九州大学、当時は帝大医学部の医師により生体解剖された事件がありました。この事件は、戦後、執刀した医師、関与した軍人等5名がB級戦犯として処刑されています。

私が中学校に通った昭和30年代の箱崎は、路面電車が走り、毎日館という映画館で遊び、赤のれんでラーメンを食べたり、オキュウトや心太、駄菓子屋でのカキ氷、みんな懐かしい思い出いっぱいの所です。同窓生の村田篤司さん(28回生)が描いた「三丁目の夕日」の絵は心に沁みますが、その絵をみると、その頃のことがよみがえってきます。

次回は私の半分のルーツである篠栗を特集します。

以上

参考文献→福岡県の歴史・山川出版社、福岡歴史百景・葦書房、博多に強くなろう①・葦書房、福岡県の歴史散歩・山川出版社、筑前の地名小字・池田善朗・石風社、福岡地名大辞典・角川書店、福岡県謎解き散歩・新人物往来社。博学博多・西日本新聞社

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