香綾会コラム

No.53「人生の夢」

    

亀井 隆海(高7回生)

昨年春、高校時代の友人だった豊島君と58年振りに再会した。近況を語り合いながら私が、僧侶であることを告げると「悪だった君が本当に坊さんになったのか!そう言えば、卒業アルバムの寄せ書きに、お寺の宣伝ばしとったからな」、と驚きの表情を満面に浮かべた。しかし私の記憶には、卒業アルバムにそのような記述があるなど全く記憶になかった。帰道し、早速アルバムを開いてみた。そこには「南無阿弥陀仏 葬式は安楽寺へ!亀井坊主」とよくも恥ずかしげなく記された、一際大きな墨書がそこにあった。

私が将来、「僧侶になりたい」という思いを抱いたのは、寺に生まれ育った家庭環境の中で、こどもの頃から心の中にあった夢だったと思う。戦中・戦後の厳しい時代に育った苦しかった思い出は、今に忘れられない。当時、寺だからといってどこの寺も余裕があるものではなかった。寺に生まれ育った子どもだからといって、寺の次男や三男が将来僧侶になれるという経済的保証などどこにもなかった。しかし私にとって将来の夢として、きっと僧侶になるという意気込みと夢はあったと思う。

私には2人の兄がいた。長兄は昭和20年父亡きあと、寺を継ぎ住職となった。私より学年が2級上の次兄は小学生の頃から秀才だった。いつも級長をつとめ、腕力があり、運動神経も抜群だった。高校時代はラグビー部のラガーマンだった。皆に信頼される素晴らしい次兄だっただけに存在感は大きかった。長兄はその次兄が自慢の弟だった。将来、僧籍に就かせ、良縁を得て、僧侶として長兄の相談役となって欲しいという願いがあったが、その兄は、高校を卒業すると一浪して、奨学資金で学費がかからない国立の水産大学に進んだ。次兄に夢を託す長兄は、福岡市内にある寺に下宿させて学区外の高校に通わせたり、遠洋航海など思わぬ不測の金がかかる水産大学だったにもかかわらず、スポンサー的厚遇を与えた。しかし6年間の学業を終えた次兄は水産関係への就職の道を選んだ。順風満帆、多くの水産会社の社長や会長などを歴任し、勇退して現在がある。次兄に対し、僧侶となって私の相談役になってほしいという長兄の願いは実らなかった。

翻って当時、私は福岡県立香椎高等学校生で、新制中学校から入学した男女共学の第1回生だったが、取りどころが少なく存在感は薄かった。すべてが絶対的評価の次兄と中途半端なとらえどころがない私の能力の差は歴然たるものがあった。それでも私には人生に賭ける夢があった。それが高校時代の将来僧侶になりたいという願いを込め、卒業アルバムの寄せ書きに記したのが私の意思表示だったのだろう。

3年生になり進路調査があった。頭がいい1組から3組までの進学組の生徒には「どこの国立大学にするか、一流の私大か?」膝詰めの指導があったと思う。その結果は、国立の九州大学に22名(私の記憶の中では)が進学したほか、防衛大学校やその他の国立大学、関東・関西の私立大学に多くの者が進学した。

私のクラスは3年4組、進学・就職どちらでも良い女生徒が多いクラスだった。クラス55名中、男子生徒は15名、文武両道で部活にも熱が入っている血気盛んなクラスだった。それだけに明治大学や立教大学、日本体育大学などに数名が進学した。落ちこぼれだった私も一応進学希望の1人だったが、私に対する進路指導は「お前の進路は自分で決めろ」というつれない指導だったと思う。アルバイトや部活の柔道に熱中し、勉強をする暇がなかったつけが一度に降りかかった最悪の状態だった。

私は自分の能力を勘案し、柔道で体力増強を志す短大を選んだ。当時福岡近郊で通学できる大学は、昭和22年の学制改革により改変された、前身が帝国大学だった九州大学や実業・専門学校などから大学に格上げされた前身が、師範学校だった福岡学芸大学(今の教育大学)。神学校だった西南学院大学。福岡経済専門学校だった福岡商科大学(昭和31年、単科から総合大学に改変された今の福岡大学)、そして福岡外事専門学校だった福岡商科短期大学(昭和31年、福岡大学に改変時、募集停止廃校)などだった。

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