香綾会コラム

No.41「時を感じる・・『雲板』」

    

香綾会事務局

香綾会館を訪れると、香椎高校の歴史を感じられるものがたくさん保管してあり、訪問した私たちも誇らしく感じさせられるものもあります。その中から、今回は黒門のルーツを交えながら、時を感じていただきたいと思います。

さて、香綾会館に掲げられている下画像の板、皆さん何だと思われますか?

香綾会コラム No.41「時を感じる・・『雲板』」

名前は「雲板」と言います。下の画像(黒門の遺構)内に黒門に掲げられている雲板があります。

香綾会コラム No.41「時を感じる・・『雲板』」

この「雲板」について、創立50周年誌に説明がありましたので抜粋してご紹介します。

南部黒門 ~創立50周年誌より転載~

昭和18年3月31日、第3棟の特別教室(物理・化学・図画等)が落成した。この年、異彩を放つ校門が完成した。この校門のもとは、旧南部藩の黒門であった。太田清蔵翁が東京で目白の奥州南部藩の大名屋敷を買収したとき、たまたまこの黒門のことを長沼校長に話した。長沼校長は、この長屋付きの南部の黒門は東大の赤門に匹敵する価値があるとして、清蔵翁を説き、香椎中学の校門とすることにした。解体した木材や瓦の輸送には船便を用いたという。その後この本校の誇りとした黒門は、再度の台風のため倒壊し、長屋の方だけが残った。その長屋は現在も福岡女子大学構内に往時を語る記念物として立っている。大学では雲形の板面に次の文字を刻んで記念とした。

香綾会コラム No.41「時を感じる・・『雲板』」

「南部黒門の遺構」(雲板に記された文)

世に南部黒門と喧伝するものは旧盛岡南部家の江戸藩邸門で、その建造は江戸中期頃か。明治2年改修の標札があった。昭和15年太田清蔵氏香椎中学を創設せらるるや、九大名誉教授長沼賢海氏を校長に迎え、その高邁なる理想にもとづき期するところあって、昭和18年当時東京都下目白にあった旧藩邸から、遠くこの地に移建せられたものである。後風害に倒るること両度、当時の正門は廃せられ、今この長屋のみを遺存する。

香綾会コラム No.41「時を感じる・・『雲板』」
「黒門」のルーツ、旧相馬子爵邸の荘重な表門(東京・目白)
=「相馬家邸宅写真帖」より ~75周年記念誌「『黒門』ものがたり」掲載~
香綾会コラム No.41「時を感じる・・『雲板』」
「香椎中学に移建された黒門と長屋(昭和22年春)
~75周年記念誌「『黒門』ものがたり」掲載~

昨年、雲板へ記された文字を残す作業が行われました。下の画像がその写真です。

香綾会コラム No.41「時を感じる・・『雲板』」

その際に、以下の文言が追記されました。

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創立50周年記念誌101頁に写真付きで全文を掲載。当時は黒門に付随した長屋が福岡女子大学内に残っており(平成元年撤去)、大学側がこの文を書した雲板を制作したと書いてある。なお、この文中に香椎中学創設を昭和15年としているのは昭和16年の誤りであると記念誌には注釈がついている。また、創立75周年の黒門再建の折に発行された「黒門ものがたり」(花田衞氏著)によると、黒門は大正4年(1915年)に相馬子爵家が邸宅を新築した時にあった表門でどこかの大名屋敷にあったものを移築したらしいが盛岡南部藩の門か否かは不明だと書かれている。
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※創立50年記念誌、75周年記念誌「『黒門』ものがたり」より抜粋転載をしております。

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