香綾会コラム

No.17「黒門復元の経緯について」

    

第5代香綾会会長 池浦 貞彦(高1回生)

黒門の復元が実現できたこの喜ばしい機会に、復元に至るまでの経緯をまとめると共に、その具体化に向けて努力を重ねてこられた関係者諸氏に敬意を表したい。

「輝かしい伝統を誇る香椎高等学校というけれども、その伝統や歴史を具体的に語れる内容は何だろうか」といった話が出始めたのは田中寛氏(旧制香椎中学校2回生)が香綾会の会長に就任された昭和63年5月の頃である。明けて平成元年4月に赴任された西村昭治校長は、創立50周年事業の一環として建設された香綾会館の活性化を挙げられた。さらに教育環境を整備するために玄関前のロータリー庭園や中庭の新設・整備、正門や裏門の整備及び生徒の生活ゾーンの確保と駐車場の在り方を検討する中で「黒門の復元」が話題になり始めた。

香椎高等学校の前身である旧制香椎中学校の創設者太田清蔵翁と初代校長の長沼賢海先生が壮大な理想と建学の精神を象徴させるペくこの歴史ある黒門を復元して香椎高等学校の伝統と歴史を具体的に示し、香椎高等学校の生徒としての誇りと自覚を持たせることができればと関係者は願った。時あたかも「個性ある学校作り」が福岡県教育委員会をはじめ教育関係者の間で標榜されていたことも手伝って、黒門の復元は多くの賛同者を得ることとなった。

旧制香椎中学校は昭和22年の学制改革に伴って翌年、香椎女学校と合併され、校舎・校地は県立福岡女子大学が使用することになった。黒門は台風のために崩壊してしまい、付属の遺構だけがその姿を残していた。しかし、平成元年になって学生会館建設のためにその遺構を撤去することになった。この情報を耳にした田中寛会長はじめ香綾会有志が県の関係当局と交渉して、同窓会の所有物として譲り受けると共に移設の許可を受けることに成功した。黒門及び遺構の残存物を保管する作業は建築設計事務所の社長舛本六助氏(高校9回生)が中心になって行った。

創立70周年記念事業実行委員会が平成元年11月25日に発足し、黒門の復元を記念事業の1つにいれることが決定された。しかし、総合的学校環境整備の計画を検討する中で、黒門とその遺構をどのような形で校内のどこに建てるのか論議が続けられた。その頃JR香椎駅の南側に陸橋が架設されると、8割近くの生徒が北門から登校して来ることになり、北門の場所に立てる案が有力になってきた。同窓会としては学校教育に直接携わっておられる教職員の意見を尊重する基本的姿勢で臨んだ。既に募金活動も始めていたのであるが、平成2年9月に「香椎高校全面大改修工事」が県教委によって発表され、工期が4期5年間にわたると聞いて実行委員や関係者は県費補助金の可能性も含めて少なからず動揺した。

平成3年4月森原正博校長が赴任されると直ちに学校、PTA、同窓会三者の会合で検討が重ねられ、在校生に対する教育的効果から遺構よりも黒門そのものを復元することが望ましいという意見が大勢をしめるようになった。翌平成4年3月の卒業式において森原校長が黒門復元計画を卒業生に説明され、正式ルートに乗ることになった。

平成3年11月3日の創立70周年記念総会において、田中会長は黒門復元の趣旨を同窓会員に説明して了解を得た。3000万円近い浄財を集めながら、校舎大規模改築のために具体的実行を保留したまま、田中会長は池浦にバトンを譲り渡されたのである。

これまでに香椎高校の卒業生が多数母校の教壇に立たれたけども、学校長としては平成5年4月に赴任された高校7回生の内田辰雄先生が最初である。母校活性化の動きは予想以上に早く且つ精力的なスタートが切られた。翌春には高校10回生の中矢眞人氏が参事事務長として着任され、いよいよ強力な推進態勢が出来上がった。果てしなき夢を具体化するための「香椎高校将来構想委員会」が発足したのは平成6年10月25日である。学校側から内田辰雄校長、吉田四郎教頭、中矢眞人事務長、PTAから高原議会長、安河内維仁、長直資両副会長、同窓会から池浦貞彦会長、花田衛副会長、和田精吉副会長及び吉武仁博、田代久義、森泰播、大神研裕、進藤邦彦の各氏に加えて創立70周年記念事業の委員であった田中寛名誉会長、折居憲親副会長と加藤聡幹事の3氏が委員として任命され、池浦が立場上そのリーダー役を仰せつかった。

校舎等の整備、学力向上対策、部活動振興、地域に愛される学校作り等と共に屋外整備が取り上げられ、その中の重要事項に黒門の復元が挙げられたことは当然である。そのためのプロジェクト・チームを構成して早速具体案を練り始めた。予算とスペースの関係から遺構は割愛して黒門のみを復元することについては異論がなかった。設置場所については正門、北門の他に南門の案が出された。しかし、北門の改修が校舎改築工事の中に含まれており、たまたま工事を担当した安川建設株式会社の社長が高校4回生の安川與志清氏(香綾会副会長)である。安川氏は母校の発展を願って鷹が飛び立つ飛翔の姿をモチーフにした素晴らしいステンレス製の門を完成された。このため北門案はなくなり、体育系ゾーンの将来計画も勘案しなら正門に位置付ける案が決定された。消防法の関係から木造ではなくコンクリート製にする方法も考えられたが、他の建物から10メートル以上離れていれば木造でよいことがわかった。材料を台湾ヒノキにする案も具体的に練られたが、値段や材質の関係からカナダ産のひば材を使い、石材も韓国から輸人するなどいろいろと知恵がしぼられた。名称についても、もっと親しみ易い呼び名を付けてはどうかというわけではなく、何はともあれ本来の「黒門」という名称をそのまま継承することになった。

設計と工事をどこに依頼するか多角的に検討された結果、設計は舛本設計事務所に、施工は安川建設に依頼することが決定され、両者ともこの難事業を快く引き受けて下さり、委員一同心から感謝している。当初の段階では歩行者は勿論のこと車両も通行できる門を考えていたが、道路との高低差があるために階段を付けなければならない点から歩行者のみが通られる構造にならざるを得ないようになった。そのため見積額も当初より高くなり、回期ごとの募金に加えて黒門の瓦を寄付していただく浄財集めをすることになった。

「黒門って何のこと?」尋ねられることがある。これは当然のことで、実際にこの門を見たことがあるのは旧制香椎中学校と高校5回生までである。今後、香椎高校のシンボルとして在校生はもちろん、卒業生の精神的拠り所になり、愛されていくためには歴史的経緯を理解していただく必要がある。

ここで西日本新聞の社会部、文化部の第一線記者として長年活躍し、著書も多い花田衛副会長に調査を依頼して、この「『黒門』ものがたり」をまとめていただいた次第である。

黒門復元のために協力して下さった方々に心から感謝申し上げると共に、香椎高等学校の限りなき前進を祈って経緯の報告に代えさせていただきます。

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