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香綾会コラム

   第38回コラム  「香椎高校バスケットボール 創部物語」

                 旧中4回生 原 裕一郎
平成22年、香椎高校バスケットボール部は創部65周年を迎えた。
創部当時のことを知るものはほとんどいなくなった今、想い出を残しておかねばと、遠い昔を思い出しながら書いている。

終戦により学徒動員から学び舎(現在福岡女子大学)に戻った昭和20年夏、講堂兼体育館の入り口のドアは破れ壊れていた。窓ガラスもかなり割れて荒れた状態だったが、バスケットボールの扇形ボード(当時のルールはボードが扇形だった)は健在で、これが強く印象に残っている。

授業も開始され、落ち着いてきたころ、バスケットボールをしたくても、残念ながら学校にボールがない。担任の榎治先生にボールを買って欲しいとお願いし許しを得たが、福岡市内のスポーツ店のどこを探してもボールの在庫がない。ようやく古物商でボールを発見し、1個だけ手に入れることができた。たった1個のボールを昼休みや放課後にリングに投げ入れて遊んでいた。
10人くらいの者が争ってリバウンドボールを取り、リングにただ投げ込むだけのこと、これは練習ではない。未だ、創部前の話である。

翌21年の春ごろにはスポーツ店でボールが購入できるようになり、筆者が中学4年生になって(昭和21年)榎治先生が顧問に就任され、ようやく籠球部(当時の名称)が創部されたのである。
技術指導できる先生はなく、たまたま筆者の小学校の同級生福田俊祐君(新天町の福田歯科医院院長・元福岡社会人バスケットボール連盟理事長)が、西南中学(現在西南高校)でバスケットボールをやっていたので練習のやり方を教えてもらい、それを部員に教えたり、栢野武敏君(高校第2回卒業 旧姓:柴田武敏君)の兄さんに時々コーチに来てもらい、ようやくまとまった練習ができるようになったものである。

とはいっても、戦後の物資不足の折、練習は裸足、試合は地下足袋、スポーツ店で未だバスケットシューズが販売されてなく(唯一千代町の東田靴店が誂えで作っていたが高価でとても買えなかった)、ボールもチューブに空気を入れて紐で結び、皮革の中に入れ、紐通しで革紐を編み上げ靴のように穴に通したものだった。革紐で編んだ部分が盛り上がるため、ドリブルするときは網目がフロアに当たらないように気を使わなければならなかった。おまけにまん丸のボールはほとんどなく、多少の変形は仕方がなく大変お粗末なものだった。チューブの空気漏れは日常茶飯事、チューブの穴あき修理や空気を入れて革紐を通す作業は下級生が担当したものである。

創部したばかりで技術は未熟だったが、練習はハードだった。
食糧難時代のことゆえいつも腹ペコ。夏は体育館裏山の畑からきゅうりやさつまいもを取って来て、きゅうりは生かじり、さつまいもは部室で七輪で焼き、飢えを凌いだ。焼き芋がばれて東野蜂郎先生からビンタを食ったことはよく覚えている。

終戦後のことゆえ、バスケットボール協会もやっと設立される運びとなり、西南高校の岩田富郎先生やマツノスポーツ店の松野社長がリーダーとなり、筆者もお世話役の一人として参加した。
そんな時代なので定期的なバスケットボール大会はほとんど開催されておらず、対外試合は相手校に申し入れをして、招いた側の学校に来てもらって試合を行う招待練習試合が主流だった。

当時、福岡市内でバスケットボール部があったのは、修猷館中学、福岡中学、筑紫中学(現在筑紫丘高校)、西南学院中学、福岡商業、福岡師範学校、郡部では宗像中学くらいだったと記憶する。この中でなんとか勝てそうな互角の相手は福岡師範のみ、従って招待練習試合はもっぱら福岡師範学校とやっていた。他校はみんな強く、中でも福岡中学、福岡商業、修猷館は強かった。
宗像中学を練習試合に招いてコテンパンにやられて大恥をかいたことは今でも覚えている。まして福岡市内の各校は香椎中学があまりにも弱過ぎて、申し入れをしても「レギュラ―をはずしてなら応じてもいい」と練習試合さえろくに相手にしてくれなかったものである。

終戦後は西戸崎に駐留していた米軍の兵隊がときどきコートを借りに来ていたので、彼らの仲間に入れてもらって練習していた。彼らは全員バスケットシューズを履いており、ボールはまん丸で網目もなし。しかも一人に1個以上持ってきておりこれには驚いた。
ある日、仲良くなった兵隊にボールをねだったところ1個のボールをプレゼントしてくれた。部員にとっては宝物だ。悪だくみをする部員が居て故意にボールを体育館の外にけり出し、外で待っていた部員が素早くボールを持って部室に走る。持ってきているボールのうち1個ぐらい盗んでも相手は気がつかないだろうというのである。
1日1個のペースで盗んでいたが、3〜4個目に相手に気づかれ盗みはそれで終わった。子供心とは言え悪いことをしたものである。

筆者が5年生の時、西日本新聞社主催の大会が行われた。
1回戦で強豪佐賀中学と当たった。公式試合出場はこれが初めて、8分クォーター制、香椎中学の得点は各クォーター3点で合計12点、第2クォーター以降、佐賀中学はレギュラーメンバーが1人も出場せず、控え選手にも軽くあしらわれて、与えた得点48点で大敗、このスコアは今でもよく覚えている。

筆者は香椎中学を卒業(昭和23年)して福岡市の社会人チーム(福岡メイプル倶楽部)に所属した。このチームは強かった。昭和25年(筆者が20歳の時)九州大会(鹿児島)で優勝し、東京で開催された全日本選手権大会に出場、準々決勝まで進んだ。筆者は補欠だったがセンターとして8得点を稼いだ。

メイプル倶楽部に所属した関係で、メイプル倶楽部のガード高松卓氏(慶応大学卒)に香椎併置中学バスケットボール部のコーチに就任してもらった。
顧問の戸川徳次先生は極めて熱心にお世話いただいた。
このおかげで香椎併置中学はメキメキ強くなり、県大会ではシード校となり、九州大会でも準優勝し、福岡県代表として九州大会や西日本大会にも出場したものである。

また、栢野武敏君(高校第2回卒業 旧姓:柴田武敏君)は、九州では初の国際審判のライセンスを取り活躍した。香椎高校にはこんな素晴らしい先輩がいたことを後輩や在校生は大いに自慢してもいいのではかと思う。

創部65周年記念総会のため努力いただいた実行委員会の皆様に厚くお礼申しあげます。
香椎高校バスケットボール部が今後ますます発展することを祈念します。