トップページ第13回 香綾会コラム

香綾会コラム

  第13回コラム 「福岡発、東京→ニューヨーク→
              ワシントンDC→カリフォルニア→インド」

                     高36回生 坂田マルハン美穂
「国語の先生になって、香椎高校へ戻って来る」

そんな思いを胸に抱きながら、下関にある梅光女学院大学の文学部日本文学科に進んだ。しかし20歳のとき、生まれて初めて日本を離れ、ロサンゼルスで1カ月間ホームステイしたわたしは、世界の広さを目の当たりにして、かつてない衝撃を受けた。もっとさまざまな世界を見たいと切望するようになった。

大学卒業後は上京し、海外旅行ガイドブックを制作する編集プロダクションへ就職した。薄給のもと、休みなく働く日々。その後、広告代理店へ転職したが、公私ともに海外を旅する日々は続いた。やがて27歳でフリーランスのライター兼編集者として独立。そのとき、年に3カ月間は休暇を取って海外へ出ることを決めた。その実現のために、残りの9カ月間は休みなく働いた。

最初の1年目は、欧州を3カ月間、一人で放浪した。2年目は、英語力をつけようと英国へ赴き、やはり3カ月間、語学留学した。そして3年目。今度は1年間の語学留学予定でニューヨークへと赴いた。30歳のときだった。

マンハッタンに降り立った途端、全身の血がざわざわと沸き立つのを感じた。この街で、しかし語学学校に通ったのは最初の3カ月間だけ。それからは、日系の出版社で働き始めた。もう日本へは戻りたくなかった。紆余曲折を経て、その翌年には自分の出版社を設立。就労ビザを自給自足し、独立した。

社員は自分だけとはいえ、ニューヨークで会社を維持し、生計を立てていくことは並大抵のことではなかった。しかしこの街で自立できているという事実に鼓舞されるように、障壁を乗り越えていった。当時住んでいた50階建ての高層アパートメントの屋上から、マンハッタンの摩天楼を、セントラルパークを一望するとき、たとえようもなく心が高鳴ったものだ。

2001年7月、渡米当初に出会っていたインド人男性と、彼の故郷デリーで結婚式を挙げた。軌道に乗っていたニューヨークでの仕事を捨てられず、ワシントンDCに住んでいる夫とは、結婚後も別々に暮らしていた。しかし結婚して2カ月後の9月11日、我々の暮らす二都市が標的となった同時多発テロが起こる。あのときほど、自分の身の振り方を考えさせられたことはなかった。考え抜いた挙げ句、夫と一緒に暮らすことを決意したのだった。ワシントンDCに移ってからも、仕事は地道に続けた。ニューヨーク生活を描いた『街の灯(まちのひ)』というエッセイ集を、日本で出版する好機にも恵まれた。

2003年の終わり、英語の勉強をやりなおそうと、数カ月間、語学学校に通った。その際、卒業論文のテーマに「インドの新経済」を選んだ。折しも、米国のメディアがインドの高度経済成長に目を向け始めたころで、情報は次々に入って来た。調べれば調べるほど、インドへの関心が沸き上がって来る。

米国生活十年目を迎え、次のステップを考えていたこともあり、インド移住がひらめいた。大学進学と同時に渡米して以降、米国で暮らしていた夫にとって、母国への帰還は一大決心である。何度も何度も話し合いを重ね、衝突し合い、しかし最終的に2005年、夫のビジネス基盤を整えるため一時カリフォルニアへ移った後、晴れてインドへ移住したのだった。

インドでは、とても一言では語れぬほど、濃密で刺激に満ちた日々を過ごしている。現在は、IT都市バンガロールと、経済都市ムンバイ(ボンベイ)を行き来する二重生活を送っている。夫をサポートしつつ、わたしは日本とインドを繋ぐべく仕事のほか、社会活動なども行っている。今後は、アジア諸国との関係が深い福岡とインドとの結びつきを重視した仕事を増やしていきたいと考えているところだ。

 * -- 坂田マルハン美穂さんについて -- *
  ●西日本新聞:毎月最終月曜日朝刊、アジア面『激変するインド』を執筆
  ●FM熊本:毎月第2、第4金曜日AM9時半ごろ『マジカルフライデー』でインドを語る
  ●坂田マルハン美穂ホームページ
  ●インド生活のレポート