トップページ第1回 香綾会コラム

香綾会コラム

第1回 「私が生徒会長をした時代を回顧して」    高15回生 古川 洋
香綾会のHPが開設され、「元生徒会長としてコラムを書いて欲しい」とお願いされましたが、何しろ今から45年も前の出来事、半世紀近く前のことなので、断片的な思い出はあっても、思い出せないことの方が多く、ボケかけた記憶では至難かもしれませんが、アルバムをめくりながら、皆さんの訂正、追加補填を期待しながら、とにかく記憶を掘り起こしてみようと思います。

小生、昭和35年(1960)に香椎高校に入学し、2年生の後半から3年生の前半まで生徒会長を務めました。小生が高校在学中に大きな不幸な事件が二つ続けて起こりました。 昭和36年12月、1年先輩の自宅に米軍のジェット機が墜落し、家族の方が死傷されました。当日の午後、校舎(今の正門側にあった)から黒煙が見え、直ぐに行ってみましたが、すでに現場には米軍がいて近寄れなかった記憶があります。先輩は卒業写真の撮影の為に香椎の海岸に行かれており無事でした。当時、米軍はまだ福岡空港(板付空港)に駐留し、福岡近郊は連日、米軍機の轟音に悩まされていました。

それからそう日もたたない昭和37年1月29日朝、香椎高校の長い歴史の中でも最大とも言える不幸な出来事が起こりました。当時3年生だった小生が登校すると、校舎中央の家庭科室の棟が無残にも焼け落ちて、真っ黒な柱だけになっていました。小生たちは呆然とその焼け落ちた校舎を眺めた記憶があります。しばらくたっても、何故だか火災現場の後片付けは進まず、焼け跡の臭いと黒く焼け残った廃材がそのままに残されていました。そこで、生徒会の役員数人と廃材の後片付けを始めたところ、柔道部始め運動部の皆が多数集まってくれて、毎日放課後は火災現場の後片付けをしました。これには本当に感動しました。

小生は応援歌を作ることを公約に生徒会長になり、小生自身はたいしたことはしていませんが、無事、生徒会長時代に今の応援歌を作ることが出来ました。今でも盛んに歌われているようで、正に感慨無量です。また、毎朝、生徒会からのお知らせを校内放送でやっていたことも思い出になっています。 他にもいろいろあったように思いますが、どうも記憶が薄れており思い出せません。この時代のこの出来事について他に記憶がある方、どうか投稿をお願いします。昔の校舎の配置図が描ける方もお願いします。追伸を期待します。

詳細情報(創立50年史より転載)
1月29日午後11時過ぎ、福岡市香椎の福岡県立香椎高校(山本三吾校長、生徒1400人)の第2北校舎の家庭科被服教室付近から出火、同校舎の4教室と東隣の第1北校舎の4教室、どちらも木造平屋建2むね1300平方メートルをほとんど全焼、30日午前零時半鎮火した。  福岡市内の各消防署から22台の消防車がかけつけ消火にあたった。同高校正門にそって流れる浜男川の水をとって消化にあたったので、水利はよかったが、風が強かったのと木造校舎だったため火の回りは意外に早かった。同校舎の主要校舎は5むね(30教室)だが、焼けたのは第1北校舎の生物準備室、物理教室、同準備室、化学教室、第2北校舎の調理教室、作業室、被服教室(2)で、全部特別教室。